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枢木レイさんのブログ

2025年7月5日 (土) 17:03

関西人の「行けたら行く」は99%行かない説

「行けたら行く」は、非常に便利な言葉だと思う。 本当は行きたくないけど、行かないって言ったら、角が立つから、曖昧な言葉で濁す。 私も、気乗りしない集まりは「行けたら行く」で濁すことが多い。 そして「行けたら行く」と回答した集まりには、99.9%の確率で、参加しない笑 これは、関西人あるあるらしい。 どちらかと言えば、関西というよりも京都の文化だと思う。 京都人は、都合の悪いことを言う時、生八ツ橋の皮で、何重にも包んで、 原型すらも、とどめていないような状態で、言葉を返す習性がある。 しかし、その文化は、京都だけにとどまらない。 大阪や神戸の人間は、生八ツ橋ほど分厚くないが、 オブラートくらいの分厚さで包む癖はある笑 関西人にとって、丁寧語は最上級のディスり構文になり得る。 特に、私の場合は、それが顕著に現れる。 嫌な奴には、最上級の丁寧語で、おもてなしをして、心理的な距離を保とうとする。 英語圏でも、このような文化は存在する。 例えば、窓を開けてくれませんか?は、 Can you open the windows?と訳せるが、 文頭の助動詞「can」を、過去形のcouldに変えることで、より丁寧な表現になる。 英語で、助動詞の過去形は、時間的な距離のみならず、心理的な距離を意味する言葉でもある。 と言うのも、英語の助動詞は、mood=キモチを意味する。 だから、過去形で、キモチの距離を取ると、丁寧語になる。 英語圏でも、丁寧語は、心理的距離を意味する言葉なのだ。 生まれてから、ずっと関西に住んでいる私は、生粋の関西ネイティブだ。 このような文化は、当たり前のものとして育っている。 ゆえに、非関西人と交流するときは、誤解を招くことも多い。 「行けたら行く」という曖昧な返答をしておきながら、 関西人の自分は、断ったものだと思い込んでいる。 ゆえに、非関西圏の人と会話をする時は、 曖昧な表現を避けるようにしている。 「行けたら行く」は、関西人にのみ通じる共通言語であって、 非関西圏の人には通じない。 しかし、関西にいる時は、関西のルールに従ってもらう。 郷には郷に従えというだろう? 例え、日本の公用語が標準語であったとしても、ここは関西だ。 私の中学は、転勤族が過半数を占める特殊な学校で、 神戸の学校なのに、関西人が少数派だった。 ゆえに、よそ者である標準語の民族は、 調子に乗って、関西弁を馬鹿にしていた。 私は、無類の平和主義者だから、関西弁をディスられたくらいで、怒る事はないが、 それにしても、よその連中は、厚かましいと思っていた。 自分の都合で、関西にお邪魔しているのだから、 お邪魔した側は、関西の文化を尊重し、 寄り添う姿勢が大切だと思う。 実際に私が、関西以外の土地に行った時は、 その土地の文化を理解する努力を怠らない。 どちらかといえば、異文化交流は好きな方だ。 私には、非関西圏の日本人のみならず、 外国人の友達もいる。 ゆえに、異文化には慣れっこだ。 関西では関西人らしく、日本では日本人らしく振る舞うが、 それ以外のコミュニティでは、その場所のルールに従う。 もしも私が、アメリカに行って、アメリカのルールに従っても、アメリカ人になる事はできないだろうし、なりたいとも思わない。 しかし、アメリカ人の文化を理解し、尊重する事で、友達になる事はできるだろう。 日本人は、よそ者と友達になるのが得意な民族であるはずだ。 日本には、聖徳太子の時代から「和をもって尊し」というルールが存在した。 海外が、宗教戦争を繰り広げている中、 多神教の日本は、仏教やキリスト教も、 よその国の神様として、受け入れている。 キリスト教を禁止したのは、 海外からの侵略を防ぐためであって、 キリスト教の神を否定していたわけではない。 お互いが違いを理解して、受け入れることができれば、 戦争だって止められるはず。 兵士たちが、武器を捨てて、その手で酒を持てば、宴の始まりだ。 私は、関西人で、日本人だから、関西と日本が大好きだ。 しかし、よその文化を受け入れ、それを謳歌できるだけのキャパシティもある。 関西にくるなら、関西の文化を受け入れるだけのキャパをもって来てほしい。 せやないと「邪魔するなら帰ってぇ」って言うで。