10/21 (火) 4:20
「好きだから歌っています」「好きだからこの曲を選びました」
といった言葉には、正直かなり違和感があります。 「好きなら、それで十分」という感情論には、どうしても距離を感じてしまいます。 もちろん、“好き”という気持ちは否定しません。 むしろ、尊いものだと思っています。 でも、そこにどんな想いが込められているのか。 どんなふうに作品や聴き手と向き合っているのか。 その姿勢こそが、本当の「好き」の深さを表すんじゃないかなと思うんです。 「好きだから」を免罪符のように使って、うまく歌えなくても気にしない、練習は気が向いたときだけ、相手の感情は二の次―― そんな姿勢を見ると、「ああ、その程度なのか」と思ってしまう。正直、がっかりします。 楽しく歌うことは否定しません。 ただときどき、「それを人前で見せて、恥ずかしくないのかな?」と考えてしまうことがあります。 自分の気持ちをそのままぶつけ、聴き手の存在がすっぽり抜け落ちてしまっているようなパフォーマンスを見ると、なんだか“独りよがり”な快楽に見えてしまい、相手にどう届くかをまったく気にしていないように見えてしまうときがあるんです。 言葉を選ばずに言えば、ちょっと過激な例えですが――まるで“自慰行為”を見せられ、こちらの気持ちが置き去りになっているような感覚になることもあります。 もちろん、「趣味は自由で、楽しければそれでいい」という考え方も理解できます。 だからこそ、誰かが耳を傾けてくれるその時間を大切にすること、自分なりに丁寧に向き合おうとする姿勢があってもいいんじゃないか、と思うのです。 楽しみながらも、誰かに何かを届けたいと願って行動すること。 それこそが、本当の意味で「好き」という気持ちが表れている姿なんじゃないかな、と思います。 作曲家の意図や作品の世界観を汲み取り、それをどう解釈して届けるか―― その過程が、音楽に向き合う理由のひとつです。 たとえば一人カラオケのように、完全に自分だけの時間であれば、感情のまま自由に楽しく歌うのも素敵です。 でも、誰かが時間を使って耳を傾けてくれる場では、たとえ趣味であっても「相手の時間を使わせてもらっている」という意識や配慮は、歌い手として欠かせないと思っています。